HISTORY

お寺の縁起

お寺の縁起 HISTORY


聖徳太子が26歳の時、百済の阿佐太子が日本に来日され、大和国の皇居にて数日ご清談の後、明石浦魚住の泊(とまり)より帰国された。そのとき順風の風を待つために、当山に足を留(とど)められた。聖徳太子は阿佐太子を見送られた後、再びお泊りになられた夜、白髪の老人が忽然と現れ、聖徳太子に「この深林は常に仏が教えを説く霊地です。」と告げて、白い雲に乗って東へ去って行った。聖徳太子は老人が現れた場所に、納殿と僧坊を建立し、足留山(そくりゅうざん)長坂寺(へんじょうじ)と名付けました。
天平12年(740)大僧正行基(ぎょうき)により、28もの堂塔伽藍塔頭寺院(たっちゅうじいん)を完備した。遍照寺はその塔頭寺院の1つ。壮大な寺領をもっていた長坂寺は、加古川の鶴林寺(かくりんじ)、揖保郡太子町の斑鳩寺(いかるがでら)と同じく、聖徳太子のゆかりの寺であることから、当山は「魚住の太子さん」と呼ばれています。
平安時代には花山上皇や和泉式部が参詣され、元弘3年(1333)の鎌倉末期に配流先の隠岐から京都へ帰路、後醍醐天皇が立ち寄り鎮護国家を祈願したと伝える。建武の新制時ごろに兵火にかかり焼失、通義和尚により再建されるが、戦国末期天正7年(1579)織田方羽柴秀吉勢と三木城城主別所長治との戦で再び焼失しました。
貞享2年(1685)の江戸前期に乗蓮社大誉上人が遍照寺の再興に着手、元禄4年(1691)覚了上人により再興され、昭和55年(1980)實誉桂純が本堂等を建て替え、現在の姿となりました。

住職と供養塔

三木合戦で別所方につき、秀吉に焼き打ちにされた魚住村の住民らをまつる供養塔

いにしえから、戦乱を越え、寺は今も地域の核であり続ける。

旅
明石四国八十八ヶ所霊場

お気軽にご相談ください

Tel. 078-946-1535